慾(よく)
展覧会
流しそうめんとオオオニバス――救済と抹殺の贈与
栗原蓮
- 会期
- 2026年7月10日(金)–7月31日(金) 13:00–20:00
- 開廊日
- 7月10日(金)/11日(土)/12日(日)/17日(金)/18日(土)/19日(日)/24日(金)/25日(土)/26日(日)/31日(金)
- 会場
- 遺失物係
※ご予約いただいた方にのみ住所をご案内します
個展ステートメント
私は毎朝、手帳を開く。人生のあらゆる時間軸に、そして今日という一日に、自分が何をしたいのかを書き記すためだ。「何をしたいのか」という欲望は、未来の私と現在の私とが呼応する時空間で結晶化する。だが、その問いを幾度も繰り返すうちに気づく。欲望の内実まではその問いだけでは捉えきれない。欲望の底には、これから起こることだけでなく、かつて起こらなかったこともまた沈殿している。過去に選ばなかった、あるいは選べなかった可能性が、かたちを変えてそこに残されているのではないか。私はその、取り零してしまった欲望の痕跡のほうに、じっと目を凝らしてみる。
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小学校低学年のある夏休み、私は鹿児島の薩摩川内にある母の実家に滞在していた。滞在中、家族と親戚たちで車を連ねて、川遊びに出かけた日があった。山間に、川がせき止められて、子どもでも泳げる場所があった。湘南の海辺で育った私にとって、川で泳ぐのはこのときが初めてだった。太陽に焼かれた河原の石が足の裏を焦がし、私はその熱から逃れるように、川辺の大木によじ登っては、淵へと勢いよく飛び込んでいた。大きな音とともに、水飛沫が周囲に飛び散る。日陰で涼む大人たちをよそに、いとこたちや姉と私は、ひたすらはしゃぎまわっていた。
川遊びをひとしきり終え、昼食はどこで食べようかという話になった。みんなは「流しそうめんなんていいんじゃないか」と盛り上がっていた。私は「流しそうめん」をほとんど知らなかったが、「そうめん」が何かは分かっていた。話がまとまりかけたところで、最後に私が何を食べたいかを聞かれた。私は「そば」と答えた。
あのときの自分を殴りたい。仕方なかったのかもしれない。物心がつく前の子どもにとって、空気なんて読むものではなく、吸って吐くものなのだから。その場で最年少だった私の意見に、一同が動揺する。もう一度、「流しそうめん」ではなく本当に「そば」でよいのかと尋ねられたとき、私は迷うことなく「そば」と答え直した。「流しそうめん」に傾いていたはずの空気はしぼみ、私たちは結局「そば」を食べに行った。
鹿児島が回転式そうめん流し発祥の地であったことを知ったのは、大人になってからだ。いまでも、そうめんよりそばのほうが好きだ。しかし、そうめんの良さも分かるようになったいま、「流しそうめん」は、私がどこか見て見ぬふりをしてきたものだったと思う。そば屋に行く途中、あるいはそばを食べている最中に、すでに自分の選択を後悔していた気がする。別に「流しそうめん」でもよかったし、「流しそうめん」のほうがよかったのかもしれない。しかし時すでに遅し。以降、私は一度も「流しそうめん」を食べたことがない。
もう一つ、小学校低学年のある夏休みの記憶が蘇る。私は家族と、静岡の伊豆にある熱川バナナワニ園を訪れていた。そのときの記憶はほとんどないのだが、ある催しのことだけは妙に覚えている。体重30kg以下の子どもが、スイレン科のオオオニバスやパラグアイオニバスの大きな葉に乗ることができる、という夏休み限定の催しだった。「乗る?」と両親に聞かれて、私は「乗らない」と反射的に答えた。
あのときの自分を殺したい。別に乗ってもよかった。本当は乗りたかった。両親は何度も説得したが、私は「乗らない」の一点張りだった。理由はよく分からない。少し恥ずかしかったのかもしれないし、怖かったのかもしれない。あるいは、また次に来たときに乗ればよい、とでも思っていたのか。
しかしそのあと、私は再び熱川バナナワニ園を訪れることなく、大人になった。もはや私の体重ではオオオニバスに乗ることはできない。このときも、帰りの車の中ですでに後悔は始まっていた。いま乗らなければ、もう二度と乗れないかもしれない、という予感があった。いますぐ引き返して、オオオニバスに乗りたかった。しかし時すでに遅し。そのときの風景と感情は、いまだにありありと思い出せる。
不思議なことに、それ以降の人生で後悔したことは何一つない。高校を中退したこと。テニスに明け暮れたこと。美大を中退したこと。海外に留学したこと。競技ディベートに没頭したこと。卒業して日本に帰ってきたこと。そして結局、両親に勧められた公務員ではなく、現代美術家になってしまったこと。物心がついてからの選択に後悔がないのは、どれも自分の意志で選び取った、と信じているからなのかもしれない。
しかし、思えば私が人生において何一つ取り零したくないという欲望を抱き続けているのは、これらの原体験に根があるのではないか。温泉に入るときにすべての湯に入らなければ気が済まないこと。文章を書くときにすべての物事に言及せずにはいられないこと。つけ麺を注文するときに必ず全部乗せを頼んでしまうこと。これらは、何かの可能性を取り零したくない、つまりあとから後悔したくないという欲望からきているのではないか。私の欲望の底に沈殿していた、根源的な欲望の痕跡。
しかし、最近になって、私の記憶そのものが揺らぐ出来事があった。両親に、流しそうめんとオオオニバスの話を、改めて聞く機会があった。そばを選んだのは事実だ。だが、そのあと家族で箱根の回転式そうめん流しに行ったことがあるという。私はそのことを、まったく覚えていない。オオオニバスについては、もう一段深い記憶の捏造が起きていた。実際に乗らなかったのは、条件を満たしていたはずの姉だった。私はといえば、嬉々として葉に乗っていたという。姉が乗らなかったことへの喪失感。すなわち、いまここで乗らなければ、もう二度と乗れないかもしれないという感覚を、私はいつのまにか自分の体験として引き受けていた。私が「取り零した」と信じてきた欲望は、すでに満たされていたか、あるいは私のものですらなかった。
その揺らいだ痕跡をたどってみれば、私は流しそうめんを選ばず、オオオニバスに乗らなかったと信じて生きてきた。しかし、両親の言葉を聞いたあとも、信じてきた記憶のなかの私は消えない。それは私にとっての真実だった。事実と真実とのあいだに、ふたりの私が並立している。だから私は、事実のなかで欠けていた記憶と、真実のなかで欠けていた体験、その両方にかたちを与えるため、流しそうめんを、そしてオオオニバスを自分の手で作ることにした。事実とも真実とも異なる現実を、創作によって立ち上げるために。
でも、少し待てよという気もしている。もし、これによってその両方にかたちを与えてしまったら、事実とも真実とも異なる現実が立ち上がる一方で、並立していたふたりの私もまた、欲望が満たされることで消えてしまうのではないか。事実を生きてきた私、真実を生きてきた私、そして新しく生まれる私。その三人が分岐しているのだとすれば、そこにはタイムパラドックスのようなものが起こってしまう。
そう考えると、この制作は、事実を生きてきた私を救うためであり、その私を殺すためでもある。また、真実を生きてきた私を救うためであり、その私を殺すためでもある。なぜなら、欲望を満たすことは、欠落によって生きてきた私たちを、同時に終わらせることでもあるからだ。それは私から私たちへの、救済と抹殺の贈与である。であるならば、私はあの日の私たちに気づかれないように、それを行わなければならない。贈与には起源があってはならず、複数の私の欲望を、矛盾のない一つの私として肯定することはできないのだから。
栗原蓮
近影の幽霊
佐藤慈
Coming soon...
痣の見える位置に立ちなさい
冨田粥
Coming soon...
正しい目
三上悠里
Coming soon...
to the end of the end
佐藤清
Coming soon...
企画概要
Mew現代美術展プロジェクト「慾と痕」の第一段階として
連続個展企画「慾」を開催します。
本プロジェクトは、連続個展企画「慾」、総括グループ展企画「痕」、
記録集企画『Mew第2号:〈慾と痕〉記録集』の三段階で構成されます。
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慾と痕
AIと戦争が、生活と制作の条件を作り変えていく時代を、私たちは生きている。
AIは、人間のように欲望しない。しかしそれは、人間の欲望の痕跡を読み取り、分類し、推定し、増幅し、最適化された応答の形式へと返送する装置である。その痕跡は、プロンプトや反応として外部化され、アルゴリズムや学習データを通じて、再び私たちの身体感覚へと送り返される。この回路において、欲望はもはや、個人の内面に閉じたものとして現れることはない。その過程で欲望は消滅するのではなく、かたちを変え、速度を増し、方向づけられる。ゆえに、生活と制作もまた、この回路の外部にあるとはいえない。そこでは、何を見るのか、何を選ぶのか、何をつくるのかをめぐる欲望そのものが、絶え間なく生成されていく。
戦争は、人間に内在する暴力性への欲望に根差している。ただし、その事実は、戦争を正当化する根拠にはならない。戦争とは、支配、安全、報復、信念といった動機を、制度、資本、技術、言葉といった媒介を通じて、集団化された暴力の形式へと編成する装置である。その作用は、遠い戦場だけにとどまらない。政治や経済、メディアを介して生活の細部へと入り込み、私たちの欲望にもまた、暴力の痕跡を確かに残していく。
欲望は、AIの回路では最適化された応答の形式へと返送され、戦争の回路では集団化された暴力の形式へと編成される。では、二つの回路が生活と制作の条件に避けがたく関わる現在、私たちは欲望をどのように扱い直すことができるのか。Mewによる現代美術展プロジェクト「慾と痕」は、欲望を単に肯定するものでも、否定するものでもない。AIが抱き得ない欲望、戦争が暴力へと編成してしまう欲望を、身体を通した感覚や記憶、情動に絡みつく執着として捉え直す。そしてその痕跡を、最適化にも暴力にも回収されない制作・展示・記録の形式へと組み替える試みである。
プロジェクトの第一段階である「遺失物係」における連続個展企画「慾」では、5名の作家が、それぞれの欲望のかたちや方向性、そして在り方を作品として提示する。連続個展という形式は、それらを一つの主題へ統合するのではなく、互いに異なる「慾」を、場の時間のなかに堆積させていく。ここでいう「慾」とは、単なる願望や快楽を指すものではない。悔恨、愛惜、変容、規範、抑圧に絡みつき、言語化される以前の感覚として作品に滲み出てしまう力である。それは、作家の内面をただ表明するものではなく、身体と環境との摩擦のなかで零れ落ち、持ち主を失って回収を待つ遺失物のように、展示空間へと差し出される。
プロジェクトの第二段階である「立川アートランド」における総括グループ展企画「痕」では、連続個展企画「慾」で提示された作品群から立ち上がった仮説、関係性、痕跡を再構成する。これは、連続個展の総集編でも、作品の単なる再展示でもない。個々の展示で提示された「慾」が、時間の経過、空間の移動、観客の記憶、そして作品同士の関係を経て、どのように変形し、何を失い、いかなる「痕」を残すのかを検証し、見極める場である。欲望はここで、起源として固定化されるのではなく、痕跡として読み替えられる。作品はそれぞれ、アートランドに仮設の地形をつくり出し、複数の痕跡が交差し、互いに干渉し合う場を構成する。
プロジェクトの第三段階である記録集企画『Mew第2号:〈慾と痕〉記録集』では、一連の展覧会企画の記録を収録し、編集する。『Mew創刊号:〈故郷探索ツアー〉記録集』では、故郷を、自我を形成する記憶や発想の原風景として捉え、その多重の在り方を探究した。本号ではその問いを、欲望と痕跡、そして展示における共有可能性/不可能性をめぐる問いへと移し替える。記録集は、連続個展と総括グループ展をアーカイブするためだけの媒体ではなく、一連の展示を経て残された作品、言葉、関係の断片を編み直し、創刊号から続く問いを別の角度から読み直すための媒体となる。
「慾と痕」は、欲望を単純化せず、痕跡を固定化しない。むしろ、それらを不安定な関係のまま配置し直すことで、いま、制作・展示・記録に何が可能なのかを問い直す。仮に平和があるのだとすれば、それは欲望や痕跡を消し去った後にあるのではない。実存と歴史を引き受け、仮固定を繰り返しながら、別の共有可能な形式へと組み替える実践のなかにしか存在し得ないのである。
栗原蓮
慾と痕 プロジェクト一覧
1. 連続個展企画「慾」
会期:2026年7月–11月
会場:遺失物係
東京都杉並区荻窪/西荻窪駅から徒歩15分
入場料:各¥500
キュレーション:栗原蓮
作家:栗原蓮、佐藤慈、佐藤清、冨田粥、三上悠里
グラフィックデザイン:三上悠里
Webエンジニアリング:栗原蓮
主催:Mew
お問い合わせ:info@artistcollectivemew.com
2. 総括グループ展企画「痕」
会期:2026年12月
会場:立川アートランド 〒188-0013
東京都立川市錦町六丁目9-8
入場料:¥1,000
キュレーション:栗原蓮
作家:栗原蓮、佐藤慈、佐藤清、冨田粥、三上悠里
グラフィックデザイン:三上悠里
Webエンジニアリング:栗原蓮
主催:Mew
お問い合わせ:info@artistcollectivemew.com
3. 記録集企画『Mew第2号:〈慾と痕〉記録集』
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