小学校低学年のある夏休み、私は鹿児島の薩摩川内にある母の実家に滞在していた。その間、家族と親戚たちで車を連ね、川遊びに出かけた日があった。山間に川がせき止められ、子どもでも泳げる場所があった。湘南の海辺で育った私にとって、川で泳ぐのはこのときが初めてだった。太陽に焼かれた河原の石が足の裏を焦がし、私は熱から逃れるように川辺の大木によじ登っては、淵へと勢いよく飛び込んだ。大きな音とともに、水しぶきが周囲に飛び散る。日陰で涼む大人たちをよそに、いとこたちや姉と私はひたすらはしゃぎまわっていた。
川遊びをひとしきり終え、昼食はどこで食べようかという話になった。みんなは「そうめん流しなんていいんじゃないか」と盛り上がっていた。私は「そうめん流し」をほとんど知らなかったが、「そうめん」が何かは分かっていた。話がまとまりかけたところで、最後に私が何を食べたいかを聞かれた。私は「そば」と答えた。
あのときの自分を殴りたい。仕方なかったのかもしれない。物心がつく前の子どもにとって、空気なんて読むものではなく、吸って吐くものなのだから。その場で最年少だった私の意見に、一同が動揺する。「そうめん流し」ではなく本当に「そば」でよいのか、ともう一度尋ねられたとき、私は迷うことなく「そば」と答え直した。「そうめん流し」に傾いていたはずの空気はしぼみ、私たちは結局「そば」を食べに行った。
回転式そうめん流しの発祥の地が鹿児島であることを知ったのは、大人になってからだ。いまでも、そうめんよりそばのほうが好きだ。しかし、そうめんの良さが分かるようになってからも、「そうめん流し」は私がどこか見て見ぬふりをしてきたものだった。そば屋に向かう途中、あるいはそばを食べている最中に、すでに自分の選択を後悔していた気がする。別に「そうめん流し」でもよかったし、むしろそのほうがよかったのかもしれない。しかし時すでに遅し。それ以来、私は一度も「そうめん流し」を経験していない。
もう一つ、小学校低学年のある夏休みの記憶が蘇る。私は家族と静岡の伊豆にある熱川バナナワニ園を訪れていた。そのときの記憶はほとんどないのだが、ある催しのことだけは妙に覚えている。体重30kg以下の子どもが、スイレン科のオオオニバスやパラグアイオニバスの大きな葉に乗れるという、夏休み限定の催しだった。「乗る?」と両親に聞かれて、私は「乗らない」と反射的に答えた。
あのときの自分を殺したい。別に乗ってもよかった。本当は乗りたかった。両親は何度も説得したが、私は「乗らない」の一点張りだった。理由はよく分からない。少し恥ずかしかったのかもしれないし、怖かったのかもしれない。あるいは、また次に来たときに乗ればよい、とでも思っていたのか。
しかしそのあと、私は再び熱川バナナワニ園を訪れることなく、大人になった。もはや私の体重ではオオオニバスに乗ることはできない。このときも、帰りの車の中で、すでに後悔は始まっていた。いま乗らなければ、もう二度と乗れないかもしれない、という予感があった。すぐに引き返して乗りたかった。しかし時すでに遅し。あのときの風景と感情は、いまだにありありと思い出せる。
不思議なことに、それ以降の人生で後悔したことは何一つない。高校を中退したこと。テニスに明け暮れたこと。美大を中退したこと。海外に留学したこと。競技ディベートに没頭したこと。卒業して日本に帰ってきたこと。そして結局、両親に勧められた公務員ではなく、現代美術家になってしまったこと。物心がついてからの選択に後悔がないのは、どれも自分の意志で選び取ったと信じているからなのかもしれない。
しかし思えば、人生において何一つ取り零したくないという欲望を私が抱き続けているのは、この二つの原体験に根があるのかもしれない。つけ麺を注文するとき、必ず全部乗せを頼んでしまうこと。文章を書くとき、すべての物事に言及せずにはいられないこと。温泉に入るとき、すべての湯に浸からなければ気が済まないこと。いずれも、何かの可能性を取り零したくない、つまりあとから後悔したくないという欲望からきているのではないか。私の底に沈殿していた、根源的な欲望の痕跡。
しかし最近、私の記憶そのものが揺らぐ出来事があった。両親から、そうめん流しとオオオニバスの話を改めて聞く機会があったのだ。そばを選んだのは事実だ。だが、そのあと家族で箱根の回転式そうめん流しに行ったことがあるという。私はそれをまったく覚えていない。オオオニバスについては、もう一段深い記憶の捏造が起きていた。実際に乗らなかったのは、条件を満たしていたはずの姉だったのだ。私はといえば、嬉々として葉に乗っていたという。姉が乗らなかったことへの喪失感。すなわち、いまここで乗らなければ、もう二度と乗れないかもしれないという感覚を、私はいつのまにか自分の体験として引き受けていた。私が「取り零した」と信じてきた欲望は、すでに満たされていたか、あるいは私のものですらなかった。
私はそうめん流しを選ばず、オオオニバスにも乗らなかったと信じて生きてきた。しかし、両親の言葉を聞いてもなお、信じてきた記憶のなかの私は消えなかった。それは私にとっての真実だった。事実と真実とのあいだに、ふたりの私が並立している。だから私は、事実のなかで欠けていた記憶と、真実のなかで欠けていた体験にかたちを与えるため、そうめん流しを、そしてオオオニバスを自分の手で作ることにした。事実とも真実とも異なる現実を、創作によって立ち上げるために。
でも、少し待てよ、という気もしている。もしその記憶と体験の両方にかたちを与えてしまえば、事実とも真実とも異なる現実が立ち上がる一方で、並立していたふたりの私もまた、欲望が満たされることで消えてしまうのではないか。事実を生きてきた私。真実を生きてきた私。そして、創作を通じて新たに生まれる私。最後の私が誕生してしまえば、異なる可能世界に並立していたふたりの私はひとりの私へと収束し、その並立は終わりを迎える。
そう考えると、この制作は、事実を生きてきた私を救うためのものであり、同時にその私を殺すためのものでもある。また、真実を生きてきた私を救うためのものであり、同時にその私を殺すためのものでもある。欲望を満たすことは、欠落を抱えて生きてきた私たちの実存を救済する一方で、私たちを私たちたらしめていた歴史そのものを抹殺することでもあるのだ。
新たに立ち上がる現実とは、事実でも真実でもなく、事実と真実のあいだから、ひとつの贈与として贈られてくる現実にほかならない。私はこの現実を、あの日の私たちに決して気づかれないように届けなければならない。なぜなら贈与とは、その起源を失って届くときにはじめて、贈与として成立するものだからだ。もし気づかれてしまえば、それは返礼という新たな呪いを生み出してしまう。
つまり、これは私から私たちへの、救済と抹殺の贈与なのである。
栗原蓮